昨日も歴博へ、戦国時代の武士(1628)「里見吉政戦功覚書」に・・画像の様な法華経を納めた経塚(67基)あると左記覚え書きの書かれています。・・・画像は国立歴博全国の経塚発見され分布図と、いろいろな経塚のレブリカ・・
もし本物が(安中市下秋間)発見されたら、大変貴重ですので、群馬県の西毛、中世の歴史の見方塗り替えるかもしれない・・
近く在住の方、情報がありましたら是非お知らせください、些細の事でもかまいいません(塚・小山・供養塔等々の埋まっているはずです)
・関連ブログ:戦国時代の武士「里見吉政戦功覚書」・・末裔の里見氏のお墓かも
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本日はお客さんを榛名神社(左上の弥陀窟から御姿岩の下の社殿のおくの洞窟を見下ろし修験者は・・・)と倉渕の小栗上野介顕彰碑と東善寺をご案内しました。
画像は霧で社殿の上重なるような大きな岩・・御姿岩が・・
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・ 榛名神社の矢立杉(国の天然記念物). 永禄6年(1563)、武田信玄は榛名神社に祈願して出陣し、箕輪城を落とすことができたと・・あたかも伝承(作って)が真実の様に
・・これはあくまで伝承です(中世、戦国時代の榛名神社相当荒れていたから、信玄が祈願したかどうか、たしかに、ないともは言えますが)(「榛名町誌」、あくまで観光協会からと添えてあり)いつのまにか、観光地このように、脚色めずらしくないです。
ひつじ大学・・シンポー多胡碑と記憶ー 主催:NPO法人ひつじ大学
会場:吉井町文化会館 大ホール
多胡碑(711)を顕彰する力・・長野氏の地域文化財活用ー 講師:山本隆志
山本先生、随所に新知見(新解釈)発表された。
・多胡碑を伝承してきた、歴史的存在資料は、長野氏がもっとも古い「東路の津登」(宗長の紀行文)(1509・永正6年)である。
・そもそも長野氏は石上氏、在原姓と自称している(系図い1本しかない・長野弾正氏所蔵)・・史料的根拠見出しがたいそうです、在原姓業国の時期に初上野介となり、石上姓長野氏を称したとする。長野氏には石上姓を継承していると称する長野氏多胡碑を伝承してきた経過を考察する・・山本先生談・・・武士が先祖顕彰する、氏文よみ、潤色する事はめずらしい事ではなく、多々あります。
・記憶する民俗ー複製された多胡碑・・講師:佐藤喜一郎・・・NPO法人ひつじ大学を主宰、
若手の民俗学者で、地元の方ではないですが、研究者でありNPO法人の代表であり(10年やっているのだそうです)。
・地下の埋められたー多胡碑・・講師;松田猛・・(夜仕事旨・・講演会聞かれず退席)
昨年里見の郷再発見伝ナンバー3冊子で「里見吉政戦功覚書」についてと竹井英文先生研究発表された、
下画像戦国時代の武士「里見吉政戦功覚書」・・館山市立博物館収蔵、里見吉政が寛永5年(1628)2月9日に息子である、里見金平・源四郎に・・里見吉政の自身の戦歴を書き綴った覚え書き・・吉政は天正5年(1577)生まれである。
・秋間に善応寺という寺がかつてあり、現在の山吹保育園の場所と思われます。・・、里見吉政この寺に最終的の葬られたそうです(寛永5年(1628)以後
・下秋間、新幹線榛安中駅開設為入り口道路ため、墓地移ってきて、整備された、里見家の墓、里見金三郎、や里見源三郎、の名あり、正面左に何かの供養塔、不明瞭ですが寛永・・年と銘文されているような、
・すくなくとも里見吉政同じ一族のお墓であることは間違いないです・・
昨日佐倉市国立歴博講演会「遺跡が語る先島(八重山・宮古)」小野正敏先生へ・
沖縄の竹富島、一般的なイメージと全く違います、現在でも集落はなれたジヤングルの中に中世の陶磁器が村跡が残されている、驚嘆です、御嶽(みたき)信仰や組織や伝承が現在の住民に時間を超えて、
文字の書かれた歴史が全くないが、土地に残る記憶と住民の伝承された記憶と豊かな歴史像伺えますと・・
・・・小野正敏先生、歴博の名誉教授は著書多数他、福井県一乗谷朝倉氏遺跡を発掘に貢献したあの有名方なのです。
帰り上野のガード下もつ焼き大統領に久しぶり寄ったがやはり満席うん・・・(まれに一人なら空いてことありますが)