「上杉憲顕」・・久保田順一著 戎光祥出版刊 2012年(ほぼ南北朝時代)
(うえすぎ のりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。初代関東管領。山内上杉家の始祖。足利尊氏・直義兄弟の母清子は父方の叔母であり、尊氏・直義とは従兄弟の関係であった。(1306~1368年)
そして、待ち望んでいた・「上杉憲政」・・久保田順一先生の本最新刊・・とうとう出版される、」(ほぼ戦国後期の時代)(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代の大名。室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家の当主である。上杉謙信を養子とした。(1523~1579)
・上野国は鎌倉時代末期から南北朝時代から戦国後期まで約200年間、(上杉氏はいくつか分裂しますが)山内上杉氏は嫡流で本国として、最重要領地で、鎌倉から上野国安中板鼻、そして藤岡平井城、拠点地で、上野国は山内上杉氏は大変大きな存在で守護・戦国大名であることがわかります。(抜きに語れません)
・上杉憲政を支えた武士・・根本被官長尾氏、現高崎市と周辺地、上州一揆の旗頭(室田・箕輪など長野氏一族)、和田氏と和田家中、倉賀野氏、北武蔵の国衆、現藤岡市平井城周辺、高山・小林氏一族、天引氏、白倉氏、小幡氏、安中氏や高田氏など多数武士国衆と言われています・・
「上杉憲顕」・・久保田順一著 戎光祥出版刊 2400+税 2012年11初刷
「上杉憲定」・・森田真一著 戎光祥出版刊 2500+税 2014年12初刷
どうしても上杉氏という平井城の上杉憲政後の上杉謙信やイメージがつよすぎて、群馬県と関わりが少ない様な感がありますが、決してそうでないです「上杉憲顕」を読むよくわかります、上杉氏は南北朝に新田義貞の没落後に守護になりとくに守護所があった安中市板鼻などもっと注目されるべきとおもわれます。
上野国の戦国前期の関東の大乱“享徳の乱”一方の当主関東管領山内上杉「上杉憲定」を抜きに語れません・・・
ネットと言葉(1)脱スマホ「夜の読書館」 詩人・菅原敏さん(1月4日 東京新聞より)
◆社会活動に支障も
<ネット依存> スマートフォンやタブレット型端末の普及で、オンラインゲームやSNSなどがいつでも利用できるようになった一方で、インターネットに常時つながっていないと不安になる「ネット依存」状態になる人も増えている。・・・本文より
オンリーわんだるふるノート・・・「自分ノート」で人生の終活を・・1000+税・・入荷しました
NPO法人わんだふる 代表赤羽潤子
地元メディアNHK640から、上毛、毎日、等々紹介され、話題沸騰しています。
昨日も歴博へ、戦国時代の武士(1628)「里見吉政戦功覚書」に・・画像の様な法華経を納めた経塚(67基)あると左記覚え書きの書かれています。・・・画像は国立歴博全国の経塚発見され分布図と、いろいろな経塚のレブリカ・・
もし本物が(安中市下秋間)発見されたら、大変貴重ですので、群馬県の西毛、中世の歴史の見方塗り替えるかもしれない・・
近く在住の方、情報がありましたら是非お知らせください、些細の事でもかまいいません(塚・小山・供養塔等々の埋まっているはずです)
・関連ブログ:戦国時代の武士「里見吉政戦功覚書」・・末裔の里見氏のお墓かも
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本日はお客さんを榛名神社(左上の弥陀窟から御姿岩の下の社殿のおくの洞窟を見下ろし修験者は・・・)と倉渕の小栗上野介顕彰碑と東善寺をご案内しました。
画像は霧で社殿の上重なるような大きな岩・・御姿岩が・・
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・ 榛名神社の矢立杉(国の天然記念物). 永禄6年(1563)、武田信玄は榛名神社に祈願して出陣し、箕輪城を落とすことができたと・・あたかも伝承(作って)が真実の様に
・・これはあくまで伝承です(中世、戦国時代の榛名神社相当荒れていたから、信玄が祈願したかどうか、たしかに、ないともは言えますが)(「榛名町誌」、あくまで観光協会からと添えてあり)いつのまにか、観光地このように、脚色めずらしくないです。
ひつじ大学・・シンポー多胡碑と記憶ー 主催:NPO法人ひつじ大学
会場:吉井町文化会館 大ホール
多胡碑(711)を顕彰する力・・長野氏の地域文化財活用ー 講師:山本隆志
山本先生、随所に新知見(新解釈)発表された。
・多胡碑を伝承してきた、歴史的存在資料は、長野氏がもっとも古い「東路の津登」(宗長の紀行文)(1509・永正6年)である。
・そもそも長野氏は石上氏、在原姓と自称している(系図い1本しかない・長野弾正氏所蔵)・・史料的根拠見出しがたいそうです、在原姓業国の時期に初上野介となり、石上姓長野氏を称したとする。長野氏には石上姓を継承していると称する長野氏多胡碑を伝承してきた経過を考察する・・山本先生談・・・武士が先祖顕彰する、氏文よみ、潤色する事はめずらしい事ではなく、多々あります。
・記憶する民俗ー複製された多胡碑・・講師:佐藤喜一郎・・・NPO法人ひつじ大学を主宰、
若手の民俗学者で、地元の方ではないですが、研究者でありNPO法人の代表であり(10年やっているのだそうです)。
・地下の埋められたー多胡碑・・講師;松田猛・・(夜仕事旨・・講演会聞かれず退席)
昨年里見の郷再発見伝ナンバー3冊子で「里見吉政戦功覚書」についてと竹井英文先生研究発表された、
下画像戦国時代の武士「里見吉政戦功覚書」・・館山市立博物館収蔵、里見吉政が寛永5年(1628)2月9日に息子である、里見金平・源四郎に・・里見吉政の自身の戦歴を書き綴った覚え書き・・吉政は天正5年(1577)生まれである。
・秋間に善応寺という寺がかつてあり、現在の山吹保育園の場所と思われます。・・、里見吉政この寺に最終的の葬られたそうです(寛永5年(1628)以後
・下秋間、新幹線榛安中駅開設為入り口道路ため、墓地移ってきて、整備された、里見家の墓、里見金三郎、や里見源三郎、の名あり、正面左に何かの供養塔、不明瞭ですが寛永・・年と銘文されているような、
・すくなくとも里見吉政同じ一族のお墓であることは間違いないです・・
昨日佐倉市国立歴博講演会「遺跡が語る先島(八重山・宮古)」小野正敏先生へ・
沖縄の竹富島、一般的なイメージと全く違います、現在でも集落はなれたジヤングルの中に中世の陶磁器が村跡が残されている、驚嘆です、御嶽(みたき)信仰や組織や伝承が現在の住民に時間を超えて、
文字の書かれた歴史が全くないが、土地に残る記憶と住民の伝承された記憶と豊かな歴史像伺えますと・・
・・・小野正敏先生、歴博の名誉教授は著書多数他、福井県一乗谷朝倉氏遺跡を発掘に貢献したあの有名方なのです。
帰り上野のガード下もつ焼き大統領に久しぶり寄ったがやはり満席うん・・・(まれに一人なら空いてことありますが)
高崎経済大学の西沢淳男准教授によると「岡上景能が英雄視された美談・間違った歴史認識=俗説が史実と混合され、教育委員会・教育現場まで広まっている。地域史を正確に見抜く力
。・・箕輪初心:生方さんのプログ★『笠懸野御用水&岡登用水』③史実編「高崎経済大学准教授:西沢淳男先生の指摘より
●西沢淳男淳教授
「しかし、一般に観光あるいは学校教育の現場において史実を知ろう
と目にするものは、研究書や研究論文ではなく、現地の観光案内、説
明板、学校副読本やメディアコンテンツ等である。WEB上でも検索
にヒットするが膨大であり、管見の限りではこれから紹介する史料の
二次利用がほとんどである。」
【二】1次史料と2次史料
史料には、その時代に書き残された1次史料と、1次史料等を加工・
編纂した2次史料がある。
地域史を描く場合、出来うる限り良質(客観的)な一次史料に当た
ることが望ましい。しかし、1次史料のみでは難しい場合も少なくな
い。その場合、2次史料を利用することになるが、十分な精査が必要となる。
・自省込めて郷土史研究に・古代史・中世軍記物、・・系図、・・氏文よみ、・・一族会・・顕彰会研究等・・
そして・・・観光と名の目的化と、どうしても、地域に、個人に、いいように、都合いいように解釈しているのではないかと、
はたして、これでよいのだろうかと、自問しています。郷土の歴史の掘り起こしとは何だろうかと・・
予告・日テレBSの録画を終えて東京駅に向かっています。画像は片岡愛之助とのツーショット(^.^)Y・・東善寺村上住職から転送画像
・◯24日(火) 『週刊朝日』に小栗上野介 連載「司馬遼太郎の言葉」に「三浦半島記」から横須賀・小栗上野介が紹介されています。・・只今品切れですが追加分で10数冊28日(土)入荷いたしています
本日付けに郷土誌「ぐんま八幡荘再発見伝」第4号・・上毛新聞、紹介されました。
11月に第3回「歴史を活かしたまちづくり連続講演会」を倉渕の東善寺さんと榛名文化会館の二カ所、会場予定しています。(先年好評だった、長年寺さんに続き会場を東善寺のお寺さんで、歴史講演会開催、予定しています、来年以降に会場を古刹のお寺さんで考えています。
・倉渕の東善寺さんの会場で(西毛の中世について・仮題)山本先生に
・榛名文化会館エコール小ホールで「新田義貞」で山本・久保田先生で大特集・・予定・
・午後 1:00~ たのしい昼市 午前11時~
お店がたくさん、食事もできます。
◇特別乗り合いジャンボタクシー 運行(事前予約制)
電車バスで参加される方向けに、運行します。運営:東善寺
・22日限定運行・先着9人まで・予約制・片道2,000円・途中乗車不可
・往:高崎駅発9:00 → 9:50東善寺 *駅の西口交番前付近で乗車
復:東善寺発15:00 → 15:50高崎駅
・予約は:榛名観光タクシー(担当久保田)027-343-0020