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地域おこし里見の郷委員会 Feed

2013年4月 8日 (月)

赤城千本桜と神代文字の碑

神代文字の碑
赤城南面千本桜と赤城神社内の神代文字の碑 ・・前橋市三夜沢町、

他に赤城神社(前橋市富士見町赤城山)二宮赤城神社(前橋市二之宮町、)あり。


碑の横にある解説。
一般的に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあったといわれ、現在はっきりしているものだけでも数種類にもなります。
この碑文は復古神道を大系づけ実践化し、又『神字日文伝(かむひふみ)』の著者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤(ひらたあつたね)の養子鐵胤(かねたね)が、上部の神文については、鐵胤の子延胤(のぶたね)が撰文し、書は篤胤の門人権田直助(ごんだなおすけ)によるものです。神文については、対馬国「阿比留家(あひひるけ)」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので、明治3年3月に建てられました。平成11年3月・前橋市教育委員会

・・・よくみると、何かハングル文字似てるような気が、しないでもないです

、漢字が伝わる以前は、文字というものがないと・・・一般的だそうです・・・昔から大論争で・・神代文字

2013年4月 4日 (木)

2013年4月 2日 (火)

山上多重搭と三宮神社

山上多重搭


山上多重塔: (国指定重要文化財) 銘により延暦20年( 801)、道輪という僧侶が法華経を安置するために建立した石製の塔です。塔は高さ1.85m、安山岩製の三層構造で朱塗りの痕跡があると言います。塔身上部には経典を収めたとされる深さ20㎝ほどの窪みがあります。 平家納経などに通じる宗教思想が、平安初期に関東に到達していた貴重な遺物として・・ 所在地 桐生市新里町山上2555

・・・赤城山南麓に奈良の平安仏教の空気が今も・・東国、群馬に、奈良の心象風景が・・この小さな石塔のかなたには、大いなる歴史の舞台があるように・東国の人々の暮らしに多大なる影響を与えた歴代朝廷による蝦夷侵略見えてきます・・・

右画像は、三宮神社:天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、伊香保神社の里宮で、上野国三宮と思われる神社,、ほぼ伊香保神社の古社地であるという、近くに総社も存在し、国府に近く、周囲に古墳群もある。

2013年3月30日 (土)

仁治の碑


仁治の碑 (県指定文化財、鎌倉時代中期 仁治四年 1243年、緑泥片岩、高さ 276Cm 最大幅 96Cm)・・・富岡市下高尾15

下部は「壬生・小野・物部・六人部(むとべ)・藤原・阿部・春日・大宅」姓で、当時この地域にいた二十数名の有力者の姓名を刻む

2013年3月29日 (金)

八幡平首塚と簗瀬二子塚古墳

首塚 


簗瀬八幡平の首塚(群馬県安中市)

約150個分に相当する頭骨が山と積まれ、その上を天明3年(1783)の浅間A軽石がおおっていることがわかった。
恐らく戦国時代に近くの城が陥落する際の犠牲者と考えられるが、この首塚は安中市の中世を物語る遺跡

永禄4年(1561)に武田信玄がこの付近帯に八幡平陣城を築き、安中城と松井田城の間を分断した。当時、松井田城主安中忠政、安中城主安中忠成親子は、箕輪城主長野氏に属し、武田信玄と戦いを交えていた。忠政は永禄2年に野後に城を築き、安中城と改めた。安中城は嫡子の忠成に預け、忠政自身は松井田城を守っていた。

簗瀬二子塚古墳は古墳時代の後期にあたる6世紀初頭ごろ・・群馬県内でも最も古いとされています。

2013年3月26日 (火)

康元の板碑と祭祀巨石

康元の 

妙典寺の康元の板碑

阿弥陀如来、右下が観音菩薩、左下が勢至菩薩を意味。その下に「康元二年丁巳三月 日」の文字が、1257年(鎌倉時代の中ごろ)に造立、・右の石碑も同じ頃できなのかと・・今から756年前  高崎市小八木町104

新田義貞で有名な東村山市の徳蔵寺、「元弘の板碑」、、(鎌倉幕府滅亡数日前の1333 年(元弘3年)5月15日の銘が刻まれ、元弘の役で戦死した飽間斎藤一族3名(安中市秋間町)の菩提を弔った供養塔)・・・の何と76年前の建立

・・高崎市中川小の隣り、妙典寺・康元の板碑、右画像は鏡岩神社にある、6世紀後半の「祭祀巨石」・・・これも高崎音塚古墳(群馬の石舞台)と同じ里見産の石だろうか・・・

2013年3月24日 (日)

「群馬の歴史文化遺産」連続講座終了

「群馬の歴史文化遺産」連続講座 2/9(土)~3/24 修了証いただきました。12講座 1日現地視察・・大変意義あり、感銘しました。

2013年3月23日 (土)

万福寺と金龍寺の宝塔

万福寺

・万福寺の宝塔 応永18年(1421年・今から592年前)・・ 戦国前期(享徳の乱が1454年の33年前) 高崎市箕郷町下芝)

・金龍寺の宝塔 慶長7年 (1602年・今から411年前) 1603年が徳川家康江戸幕府開く・・箕郷公民館のとなり・高崎市箕郷町上芝

・近くに箕郷町白川辻の・塚の越の宝塔 応永24年(1417年・596年前)があるわけなのが、見つからず

町屋の宝塔や本郷の安養寺の宝塔や楽間の宝塔にほんと近く、車で5分前後なのです

2013年3月21日 (木)

南総 洲崎神社・すのさきじんじゃ

南総 洲崎神社

あの源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房へ逃れたときには参拝して坂東武士の結集を祈願、頼朝伝説で有名です
18日に千葉県南房総市千倉町 山口幸夫さんの帰路にて

2013年3月19日 (火)

楽間の宝搭と本郷の百庚申塔

楽間の宝搭 
塔身は半球形に近い赤城塔で、上半はくびれて首のようになっています。その上に屋根形の屋蓋(おくがい)と相輪(そうりん)が乗せられています。基礎の正面に銘文があり、正長3(1430)年・583年前、永享9(1437)年・576年前、嘉吉3(1443)年・5702年前・・・東国の内乱 享徳3年(1454年)559年前ですから、戦国時代前期です、

・高崎市沖の団地近く・井野家の墓地の一角にあります

この楽間の宝搭・正長3(1430)年・583年前、永享9(1437)年・576年前、嘉吉3(1443)年・5702年前と・・
・以前紹介した町屋の宝塔・永享9(1437)年・576年前や本郷の安養寺跡の宝塔・大永元年1521年・492年前・そしてきわめつけは・上大島の安養寺跡・笠塔婆・文永5年・1264年・749年前・・県内最古の供養等が・・ほんの近くにあちます、関連性が・・

・右画像は本郷の安養寺跡の宝塔と一体にあり・本郷の百庚申塔群(本当に約百基あります、お堂のうらに、シダレ桜2本これが枯れた古い木が・江戸時代の文化・文政のころ(江戸中期・約200年前に)全国的に流行した・月待行事、、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称して集まりではないか・・

2013年3月18日 (月)

南房総の千倉 花つみ

南房総の千倉 花つみ
・12月8日(土) 榛名・倉渕地域中心に NPO・ボランチィアフェスティバルIN高崎 ・箕郷地域 ・群馬地域そして、高崎市全体のNPO・ボランチィアフェスティバル・・4地域のNPO・ボランチィアフェスティバル使用しました。

南総里見手づくり甲冑愛好会 千葉県南房総市千倉町 山口幸夫さんへ 手づくり甲冑お借りした・・・お返しに 山口さん近くの風景

手づくり甲冑地域間交流のHP・・当会(里見の郷委員会)画像あります

2013年3月17日 (日)

観音塚古墳・・石室「群馬の石舞台」・・里見石

観音塚古墳 
グラフぐんま3月号の写真から

観音塚古墳・・石室「群馬の石舞台」・・里見石(高崎市旧榛名町・里見氏発祥の地)と群馬県古墳研究の第一人者、右島和夫先生(初めて述べた方です、・・)でほぼ間違いなく里見産(正確には東間野地区)1400年前高度な文明があった(約60トンの自然石持ってこられる、土木技術等々、地域の豪族いた、群馬県最大のお祭り的事業まとめる倭人いたにちがいないと・・)

・1400年前から高度の文化をもった地域の人(里見氏の先祖)いたことが想像つきます。


・高崎市上里見の間野・谷ケ沢・上神地区には、多胡姓が多い。この多胡氏の氏神・多胡羊太夫を祀る多胡神社や多胡宮羊宗勝神儀位の石碑(寛延元年・1748年)も残されている。 .・・・毎年3月9日.多胡神社まつり

・実は、「群馬の歴史文化遺産」連続講座第一回(2・9・土) 右島 和夫先生 観音塚古墳・観音山古墳 東国古墳の隆盛と東アジア世界 の講演会が終了して、手上げて質問してみたのです、本当に里見石ですかと少し強く・・でほぼ間違いなく里見産ですと・

2013年3月15日 (金)

しどめ塚古墳と本郷の安養寺跡の宝塔

しどめ塚古墳 

高崎市本郷町、榛名山南麓を流れる烏川の左岸で、榛名白川との合流点近くにある古墳です。昭和36年(1961)に発掘調査が行われ、翌年に県指定史跡となりました。本郷的場古墳群と呼ばれています。今から1350年ほど前に造られた古墳

本郷の安養寺跡の宝塔. 安養寺跡の宝塔は本郷町字寺内にある高さ220センチの大きな宝塔で、台石には大永元年(1521)か天正9年(1581)のいずれかに

2013年3月10日 (日)

多胡碑 公開と多胡神社

多胡碑 公開
多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑、金井沢碑とともに「上野三碑」の特別公開です。

・高崎市上里見の間野・谷ケ沢・上神地区には、多胡姓が多い。この多胡氏の氏神・多胡羊太夫を祀る多胡神社や多胡宮羊宗勝神儀位の石碑(寛延元年・1748年)も残されている。 .・・・毎年3月9日.多胡神社まつり

2013年3月 5日 (火)

藤岡市 白石古墳群

七山 白石
藤岡市 白石古墳群 七輿山古墳 6世紀前半 全長145M 白石稲荷山古墳 5世紀後半全長140M

昨日午前は群馬県埋蔵文化財調査センターへ(4日ブログ)午後は藤岡市 白石古墳群と藤岡歴史館へ・・「群馬の歴史文化遺産」連続講座で 「白石古墳群と6世紀ヤマト王権の影」と講演した 軽部 達也先生と少しお話できて、よっかたです。

2013年3月 4日 (月)

甲(よろい)を着た古墳人

甲を着た古墳人 

渋川市子持の国史跡「黒井峯遺跡と同じ時期同じ日か・・
金井東裏遺跡(渋川市)出土の甲(よろい)着装人骨の一般公開(群馬県埋蔵文化財調査センター)・とうとう見てきました。

渋川市金井東裏遺跡 1500年前榛名山大噴火で・・ 甲(よろい)を着た古墳人 凄い臨場感あります。原倭人か・渡来人か、蝦夷戦乱の軍団か・それとも想像は膨らみます・・・・左の画像甲(よろい)の前白く丸くは、頭部です、右の画像、前のもり倒れた状態、甲(よろい)下は腰、大腿部の骨が・・・ほんとうに1500年前ですかね・・

・何でも火山灰の中から当時の人が発見されたことこれまでなく、甲(よろい)を着た状態で発見されたのは全国でここが始めで大変な発見だそうです、・・・8日(金)までです、当分は調査の為公開はなさそうです。

2013年3月 3日 (日)

町屋の宝塔(まちやのほうとう)

町屋の

高崎市指定史跡・町屋の宝塔も赤城塔で、上から三番目の塔身の部分が、まるでつぼのように丸くなっています。

銘文の内容は、「永享11(1439)年2月28日、町屋町(まちやまち)に住む13人の人々と旦那(寺を外護(げご)する人)12人が、講(こう)を結んで仏に供養を行った」ことを記しています。

2013年3月 2日 (土)

・白石古墳群・上野三碑・・連続講座

・「群馬の歴史文化遺産」連続講座へ

・白石古墳群 白石古墳群と6世紀ヤマト王権の影 軽部 達也

・上野三碑 石に刻まれた記憶 -上野三碑と山上多重塔- 前澤 和之

2013年3月 1日 (金)

「東国武士団と鎌倉幕府」 最新刊

東国武士団 
動乱の東国史 2  「東国武士団と鎌倉幕府」 吉川弘文館刊 2800+税 高橋一樹著 最新刊

・変わる東国武士像・・・プロローグ 治承四年、西へ東へ 治承四年(1180年)冬のある日、京から東国にむかうひとりの武士が、駿河国千本松原(現在の静岡県沼津市)にさしかかった。男の名は里見太郎義成。上野国碓氷郡の里見(現在の群馬県高崎市里見)を本拠に持ち、その地名を誇らしげに名乗っている。・・・本文より

・「東国武士団と鎌倉幕府」の著者高橋一樹先生は、一読して、当方が投稿した 視点オピニオンのテーマに共有するところがあり、源氏・新田氏・里見氏の等々(地域の誇りや愛着を発信)の中世の東国の地域史(上野国里見郷を発掘)を、手前みそですが上毛新聞のオピニオン読んでくださったかもと思えるくらいです・・・。


2013年2月27日 (水)

「榛名山」と「ハンナ山」

群馬県の榛名山は韓国の漢拏山(ハルラ山・叉ハンナ山)からで渡来人が名称と・・・群馬県立女子大学:熊倉靖氏がほぼ間違いないと言及しています。・・「東国文化シンポジュム」より

・今話題になっている、金井東裏遺跡(渋川市)出土の甲(よろい)着装人骨や日本のポンペイと言われる渋川市の黒井峯遺跡など、榛名山が大噴火していた6世紀中頃、渡来人が噴火の山をみて、済州島の噴火の山を漢拏山(ハルラ山)に連想して、ハンナ(榛名)山と・・

・榛名山という呼び方について、かの有名な尾崎喜左雄先生の説 『延喜式』(十世紀はじめ編さん)以降である、『延喜式』の中に、榛名神社とともに、伊賀保神社(伊香保神社)の名があり、もし、万葉の時代に、榛名という地名があったのなら、「伊香保嶺」という表現ほかに、「榛名」があってもよさそうなものであると・榛名神社と伊香保神社 両社とも、旧群馬郡に鎮座して、同一郡内に、有力な神社が、二つあることにおかしいのではと・・・

・高崎西部小の並び「剣崎長瀞西古墳群」 5世紀後半に第一世の渡来人居住と在来倭人と・・
・高崎下里見小の並びに下里見公民館(下里見宮谷戸遺跡)住居址内から「金床」が立ったまま発見、これも5世紀後半・・このように、上毛野西部地域は、馬飼育・鉄器生産など渡来人たちのおもな仕事としてし、ほぼ間違いなく、渡来人、帰化人、生活・活動していたと・・
(多胡碑が語る古代日本と渡来人 土生田純之・高崎市編 吉川弘文館刊 より)


・多胡氏・多胡神社 ・烏川 ・鏑川 ・甘楽 ・物部氏の貫前神社 他多数 ・・・そして榛名山・榛名神社と由緒ある名前・地名が1500年前から渡来人の(韓半島の先祖)名称からの・・・

そして里見郷・里見氏の先祖は原倭人と渡来人ではないかと・・・

関連・上毛新聞三山春秋 2・28付